自分らしくいること
実家に帰って早2週間。
最近すごくしんどい。ご飯もお母さんの作ってくれたもの、下着以外の洗濯はお任せしている。
ありがたい。でもしんどくなる原因は何でか一目瞭然。
食べたいときに食べられない。
食べたいものを食べられない。
洗濯の洗剤を選べない。取り込んだ洗濯はほかの人の分まで全部その日のうちに畳まないといけない。
書いててフッと気づいた。
そこにこそこだわりがあるのでは?もしかしたそうかもしれない。
小さいころから母の作ってくれたものを食べていた。
そのときはそんなこと思いもしていなかった。喜んではおおげさだけど、普通に食べていた。
選択する自由を知ったからかな。
それに加え家庭の事情がありまくり。
以前は全員そろって席を囲むことが当たり前だったけど、みんなでご飯を一緒に囲まなくなった実家。
今も実家でのご飯は以前よりましたが心地よくない。
小さいころはご飯の時間がすごく嫌だった。
じいちゃんとお父さんの確執。
ばっちゃん亡くなったけど、嫁と姑の確執。
親戚同士の確執。
それが一気に現れる食卓の場。
私はいつもご飯早食いしていたなぁと思い出した。茶碗置かれる音が大きい、お母さんのばあちゃんに対する怖い視線。
そういうの思いでがいっぱいの食卓。
なんか涙が出てきそうになる。
でも今は一緒に食卓を囲まくなった。
最初にじいちゃんが食べ(今はじいちゃんと私が一緒に食べる)
それから父が食べ、母は父と一緒に食べるか母一人で食べる。
家庭崩壊しているじゃんと思うかもしれないけど、逆に良くなっているのかも。
19歳から実家を出て生活しているからどうやって今の経過になったか分からないけど今が知る時なのかもな。
お母さんと話すと毎回毎回そういった愚痴の嵐で、聞いているこっちが「そうしなけいればいいじゃん」「一人でもご飯に行けばいいじゃん」「やりたいこと好きにやればいいじゃん!」「おばちゃんのいいなりにならなくていいじゃん!!」って黙って聞いていても最後には限界きてこれをぶちまける。
じいちゃんがデイケアいっている間はどっかに行けば?⇒すぐに帰ってこなきゃだから行けない。
じいちゃんがデイケア行っていないときはお父さんに任せてどっかに行けば?⇒お昼ご飯用意しないといけない⇒じゃ、準備していけば?⇒外出していた時に、じいちゃんに何かあったら近所から高齢者を一人にして遊びまわっているといわれる。
仕事を辞めたら習字とか習いたかった。と言われ、すれば?⇒そんな時間はない。(昼過ぎは台所のテーブルで座りながら寝ている)
んー。世間の役割を演じるって大変。こうも自分を押し殺さなければならないのか。
自分らしく生きることって。
きっとお母さんに、「~すれば?」と提案しても今のお母さんは受け取らない。そうしたいと思えないから。
だからこそ私が私らしく生きて私の世界をみていくことが大事。そう昨日思えた。
きっとそこから家族も自由になる。